防災・減災への指針 一人一話

2013年10月24日
消防団員の教育訓練の必要性
多賀城市 消防団第6分団長
伊藤 勲さん

住民避難誘導の際の出来事

(聞き手)
 発災直後の行動や出来事で、印象に残っている点があれば教えてください。

(伊藤様)
 発災当時の午後2時46分、隣町にある七ヶ浜健康スポーツセンター「アクアリーナ」にいました。私自身、消防団第6分団の分団長であり、常日頃より市から、地震の発生確率が30年以内に99%と聞いていましたので、その揺れを感じたとき、これが宮城県沖地震だなと直感的に思いました。
アクアリーナを出ようとした時、2回目の地震が来ました。そのとき大きなガラスが3枚くらい落ち、それに当たれば死んでしまうと恐怖を覚えました。
 その後、車で7~8分かけて大代にある自宅に向かいました。その時は七ヶ浜町から多賀城駅方面に向かう道路の渋滞は起きていませんでした。自宅に帰った後、ヘルメットと市から支給されていた無線機を持って、広報をするために消防ポンプ小屋に行きました。
ポンプ小屋についたと同じ頃にもう1人の団員も到着しました。2人いれば私が広報を、1人が運転できるので、管轄地内の大代の貞山堀沿いや旧市街地の低い地盤のところや、桜木東という隣の行政区を重点的に回りました。「大津波警報が発令されたので高台に避難してください」と避難を促しました。その時は無線機も持っていましたので、市からの連絡を無線機で受けつつ、情報を得るのにラジオを聞いていました。停電で信号が機能していないので、車や歩行者の皆さんも右往左往している状態でした。
 しかし、市に無線で情報収集と伝達を試みても、無線機が古かったためか、感度が悪くて大変苦労しました。一巡して、午後3時27~28分頃には消防ポンプ小屋に戻りました。ポンプ小屋の隣を流れる貞山堀の水が少なくなってきたので、「これは津波が来るな」と感じ、正確に状況を判断するのには情報が必要だと考え、ラジオからは耳を離さないようにしていました。すると、岩手県大船渡市で午後3時32分に6メートルの津波が襲来したという情報が入ったのです。
6メートルといったらもう私は想像もつきませんでしたが、自分たちの住んでいる大代にも2メートルくらいは津波が来るのではないかと思いました。そして、「これは床上の可能性が高いな」と判断し、橋は意外と高く設計されているのを知っていたので、ポンプ車を一旦、近くの橋のたもとに置きました。
その後、これでも駄目だと感じ、さらに一段高いみやぎ生協大代店の駐車場にポンプ車を置いて様子を見ていました。
津波第一波が大代に来たのが午後3時50分で、仙台新港だと午後3時55分だと思います。津波は時速30キロくらいの速度があったと思います。貞山堀は仙台港と塩釜港を結んでいますが、仙台新港から塩釜港の方に向けて津波が来て、貞山堀にあった漁業船やモーターボートの90%くらいが塩釜港の方に流されていきました。それが第一波までの経過です。八幡地区のような状態ではありませんでしたが、車が10台くらい流れて行きました。
 その後、消防団第1分団も来て、私たちを含めて5~6名体制になりました。津波というのは何回も来るものですから、襲来した後、引き潮になるのはわかっており、見ているほかありませんでした。
人が流されたということは確認していませんでした。情報としては入っていましたが、実際に市内の他の地域がどのような状態になっているかは想像できませんでした。とにかく、消防団員や地域住民が、怪我をしたり、津波に流されないようにといった注意喚起をハンドマイクで行いました。
 注意喚起をしていると、みやぎ生協大代店に避難している人が300人くらいいるのがわかりました。そこにはラジオがあって、ラジオからは様々な情報が飛び交い、新たに津波の情報が入りました。とにかく高いところに行かなければならないということで、屋上の駐車場からさらに一段高いところに避難しました。少し前から雪も降り始め、これは大変なことだと思っていました。

津波に対する経験と意識

(聞き手)
 過去の災害の経験がございましたら、お聞かせください。

(伊藤様)
 私が15歳の時にチリ地震津波がありました。気象庁が発表していたハワイの津波センターからの情報を聞いていましたが、まさか日本までは来ないだろうと、私と父は海に行き津波に遭遇したことがありました。その経験から、津波は1回だけではなく何回も襲来すると知っていました。

(聞き手)
 平成22年2月28日にも、津波警報が発令されましたが、その時の状況はいかがでしたか。

(伊藤様)
 津波警報が発令されたので消防団が出動しました。そのときは50センチメートルを越えない程度の津波ということもあり、東日本大震災でもその程度と考えた人が多かったのではないでしょうか。

(聞き手)
平成22年2月28日の津波では被害があまりなかったので、油断が働いたと考えられていますが、その点はいかがでしょうか。

(伊藤様)
 まず、私は「揺れ」の有無に注意を払うべきと考えています。平成22年2月のチリ地震は揺れを感じませんでしたから。次に被害の捉え方の問題もあります。チリ地震の時は1メートルから10センチメートル程度の津波が来て、潮の流れの影響もあり、漁業施設は壊滅的な被害を受けました。しかし、それ以外の被害は少なかったので、「被害はなかった」という概念に囚われたのでしょう。ですからチリ地震が教訓になったかどうかは、一人ひとりの判断で変わると思います。

(聞き手)
 他の方に比べて危機意識が高いように感じられますが、やはり過去にチリ津波をご経験されているという部分が大きいのでしょうか。

(伊藤様)
 今は造園業をしていますが、前は海苔養殖業をしていました。
今回の大震災に限らず、十勝沖やカムチャツカ沖地震等、津波の度に父や伯父の資材が流されて大変な目に遭っていたのを見ていたので、地震や津波に対する意識が高かったのかもしれません。
 ですので、市長室にある資料で、慶長の津波が起こった時の資料に目が止まったり、書店では400年前に仙台湾に津波があった資料に目が行ったりと、いつかは大変なことになるのではないかという意識はずっと持っていました。
他の皆さんより少しだけ、危機意識が強かったのかなと思っています。

広報活動を先行して実施

(聞き手)
 消防団として、どのような活動を行ったのでしょうか。

(伊藤様)
 とにかく逃げることが先決でしたが、分団長としては管轄区域での避難広報をしなければなりません。しかし、団員が集まらないことには活動できません。携帯電話もつながらない状態で、地盤の低い所はすでに被害があり、団員も被災していましたので、参集できないのも当然でした。その中で私が思ったのは、とにかく広報を先行して行うことでした。
 団員は全部で18名いましたが、発災当時集まったのは6名くらいです。その6名で広報や誘導活動をしました。
避難者の集まっているみやぎ生協大代店が危険だったため、大規模指定収容避難所である多賀城東小学校に行くにはどうすればよいのかの道案内をしたり、あとはポンプ車で避難者を運んだりしました。
しかし、ポンプ車というのは人が乗るようになっていないので、2人から3人座る場所に4人から 5人乗ってもらっても12人から13人くらいしか乗れませんでした。しかし、より多くの人をとにかく避難させようと精一杯でした。水や食料がなかったので、次の朝まで、飲んだり食べたりした記憶がありません。市から補給物資が届いたのは翌日でした。

(聞き手)
 消防団としての活動指示や連絡というのは、市からなされるのでしょうか。

(伊藤様)
 そうです。市は災害対策本部を立ち上げて、震災時は意思の疎通が図られました。

各組織が連携しての災害対応

(聞き手)
 消防団では、災害に備えた訓練をされていると思いますが、実際に役立ったことを教えてください。

(伊藤様)
 防災訓練では、水防訓練といって堤防が決壊した場合に備え、水が低いところに侵入するのを防ぐという訓練をしています。また、無線交信で長々と話すのではなく、要件だけを言って、とにかく市の災害対策本部がすぐ状況を判断できるような、短い言葉でやり取りする訓練をしていました。ですから無線機は役に立ちました。災害対策本部も混乱していましたが、お互いに助け合っていました。

(聞き手)
 発災後の初期対応を総力戦でなされたとのことですが、その時のことを教えてください。

(伊藤様)
 3月11日の午後9時50分に精油所が爆発したので、その後は24時間体制で広報を続けました。ポンプ車の中などで、交替制で仮眠を取りながら巡回し、それを一週間ほど続けました。
その間に、市から物資の輸送手段がないと相談を受け、ポンプ車と私の所有する2トン車で各地区の避難所を回ったり、また、独自の判断で、中学校や公民館、震災を免れた集会所などに救援物資を運びました。
みやぎ生協さんから頂戴した支給物資の食料品や消耗品などもポンプ車に載せて、避難所へ持って行きました。
 災害時は総力戦だと婦人防火クラブの会長さんに常日頃から言っていましたので、消防団や警察、消防署員だけでなく、いろいろな組織が連携することが必要だと思います。もちろん、人数や、装備の調達の度合いも違うので、それぞれで出来ることは限られています。しかし、お互いの責任感が功を奏して、連携できたように思います。
 大代地区は3分の1ほどが被災しました。私の家は一段高いところにありますが、それでも倉庫や車庫は1メートル60センチの浸水を受けました。

被災地の実際と人々の信頼感

(聞き手)
 二次災害的な火災も起きていたということなのですね。

(伊藤様)
 例えば、車両火災がありました。エンジンキーをオンにしたまま退避したので、通電したまま熱を帯び、後になって発火してしまうのです。人的被害は出ませんが、場所によっては、消火する手段がありませんでした。全国から応援に来てくれた消防隊員の方たちのおかげでいち早く消火出来た現場もあります。
また、消防団員18名のうち、11名の団員が被災しました。中にはご家族を亡くした団員もいます。その人たちの負担も相当なものだったと思います。
 災害対策本部の判断で、第4分団、第7分団、第8分団が応援に来てくれて、とても助かりました。地域によって被害の差があるので、判断を一律的に考えるのはよくないと感じました。団員が怪我なく、活動の目的を果たせたのが一番の成果でした。

危険と対峙する団員の教育訓練の必要性

(聞き手)
 消防団員という立場から、市民へ伝えたいことはありますか。

(伊藤様)
 救助に行って、「私はいいです、ここにいます」と返答されるのが一番困ります。その人なりの事情もあるでしょうが、私たちは限られている時間で、より多くの人を救助しなければいけません。
 消防団の団員は、救助の際、団員自身も危険にさらされています。救助する側も命がけですし、消防団員だから安全とは限りません。そのことを認識してもらいたいと思っています。消防団員は装備もさほど揃っていないので、今でも全国的に火災で煙にまかれて亡くなる団員もいます。
 今回の震災で、仙台新港で船舶火災があったので出動したところ、風上に待機させられました。後から聞いた話によると、風下では致死量の煙が発生していたそうで、我々では手出しができないため離れていました。今回の震災では、日本中で200人を超える消防団員が命を落としていますが、団員自らの命を守る啓蒙と教育訓練が必要でしょう。

情報発信と意思疎通の手段

(聞き手)
 多賀城市の、今後の復旧・復興に向けてお考えがあれば教えてください。

(伊藤様)
 国や県との兼ね合いもありますし、市長をはじめ、市が頑張っていますので、そこに期待します。それと、多賀城市は面積が狭いです。幹線道路の損傷が少なく、市長や幹部の判断で、いち早く瓦礫の受け入れ先を手配していました。それと、建設災害防止協議会の皆さんががんばってくれました。
 こうした連携プレーで、いち早く重機やトラックを使えたことは、行政の手柄だと思います。災害に強いまちづくりを進めていることは、市民の一人としても行政に感謝しています。
 中には、市は何をやっているんだというような声も聞きます。ですが、市職員も初めての経験なのです。うまくこなすことが出来る職員、ある程度こなせるような職員は訓練を積んだ方です。しかし、一度に市の3分の1も浸水するような状況を訓練してはいないでしょう。
一方、救済制度そのものがわかりにくいということはあります。そうした問題を解決するためにも、しっかりと情報を発信して意見を求めるべきだと思っています。市民側も、意見があるなら、きちんと市に伝わるような方法や手段を取ったほうがいいのではないかと諭すようにしています。言葉のキャッチボールというのでしょうか、そういったことが大切だと思いますね。

次の世代へ伝えていく事の大切さ

(聞き手)
 東日本大震災や多賀城市に関しての思いや意見をお願いします。

(伊藤様)
この震災を忘れないで子々孫々に伝える事が大切です。それは言葉でもいいし、いろんな震災遺構でもいいと思います。日本列島のような地震国の中ではこういう事もあるのだということを忘れないように、そして、それを次の世代、その次の世代へと伝えていくという事が、いくらかでも被害を少なくする、人命を救うことのできる、一番コストのかからない大事な事ではないかと思います。これから年を取っていくだろう私たちが、子どもたちとか孫たちに押しつけるのではなく、津波や地震で起こる様々な事を語り伝えていく事が一番必要です。
今、若い消防団員が減少しているからこそ、そういう気持ちを持って地域のためにいくらかでも活躍して頂ける方が増えていけばいいなと思っています。
私は消防団、そして消防団員を誇りに思っています。